大森荘蔵・坂本龍一 『音を視る、時を聴く哲学講義』

 イメージは頭にあるのだろうか、それとも身体が感じるのだろうか、そして言葉はそれとどのようにかかわるのか。人は時間を、そして音をどのように知覚するのか、あるいは、それは客観的に計測できるのか。哲学や諸科学がさまざまに論じてきたこれらの問いに正しい「表現」を与えるべく、世界的ミュージシャン・坂本龍一の問いかけに、時間と感覚について独自の思考を展開させてきた哲学者・大森荘蔵が応える先鋭的な哲学講義録。1980年代の傑作対話がここに。

 大森氏は、哲学をやるというのは一種の病気であり、緑野に枯れ草を食らうことにたとえる。考えなくても済むこと、むしろ考えることが日常生活に支障さえきたすに関わらず、考えずにおれないという病にとりつかれた人が哲学者なのである。しかし、誰の中にも哲学者の素質は1,2%あるという。この本を読んで少しでも面白いと感じるものがあったなら、自分の中の1,2%の哲学者が目覚めたということだろうか。

 本書にもいわゆる専門用語はいくつか登場する。特に坂本氏の発言にある音、音楽に関する用語は私にはまったく理解できず、したがってそれに絡む対話部分は読み飛ばすしかなかったが、それ以外についてはおおむね平易な日常語で語られる。術語や学史的用語が出てきても脇役的な位置づけである。

 メインは、本書の大半を占める大森氏が日常語で哲学するくだりである。〈今〉〈知覚〉〈イメージ〉〈意志〉〈私〉といったテーマで、氏が語る内容は既成観念をことごとくはずす捉え方を提示する。それは慣れ親しんだ考え方または感じ方とは異なるから、わかりにくいし、私もわかったと言える自信はないが、それでも「へえ、なるほど、すごい」と思える瞬間がある。「表現によって立ち現れてくる事態」、しかも全く予想もしなかった事態に向き合うのである。それが専門語ではなく、日常普段の言葉で行われる。

 哲学した結果を読むのではなく、哲学のライブに立ち会う感覚をもって読み進んでいける。〈今〉というのが点や断面ではなく、幅のある〈今頃〉という言葉に置き換えられる。喩えをもって説明が重ねられる。しかし次には喩えが不適切だとされ、他の説明が続く。しかしそれも十分ではないとされ、別の表現が試みられる。〈今〉という事態の端的な表現を求めて模索するその過程を通して、読者は哲学者とともに〈今〉なるものへ接近していく。正解にたどり着けないとしても、このスリリングな体験を共有した読者は、従来と異なる相の〈今〉が見えてくるはずである。(amazonレビューより)

大森荘蔵坂本龍一 『音を視る、時を聴く哲学講義』ちくま学芸文庫 2007

大森荘蔵著作集〈第10巻〉 音を視る、時を聴く』

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